医師にとっての定年って?
自分は60歳になった歳に、屋久島へ旅をして縄文杉を見に出かけた。還暦という節目。現在では通過点の一つだが、半世紀ほど前なら祝福される高齢である。しかし千年単位で生きているものの足下にも及ばない。だからこそそう言った命あるものを見ることで何かしら感じ、学び、そして少しでも悟りたいと思ったのである。縄文杉にたどり着くまでにも千年以上の杉がたくさんあり、進む間に、時の流れが遅くなるような不思議な感覚だったことを覚えている。
人の世界にいると、人の価値観が一般常識となり、その中で個々の人生を歩み、目標を定め、幸せを求めたり夢を見たりして生きている。人間だけが特別な生命ではないと、医療を行い人の死を多く見ていると痛感する。死はすべての生き物に平等に訪れる。知識や知恵を持った人間だけが、その自然の摂理にそれなりの解釈や答えを求めてきた。自然界では現役を退くのは、概ね死を迎えるときである。しかし文明の進歩、いや医学の進歩と言って良いかもしれないが、その結果生命寿命のみが伸びて、健康寿命は伸び悩むと言った皮肉な結果になっている人間社会。死ぬ直前まで働いていたという話を聞くことはめっきり減った。
話が変わるが、私はこの歳になってもアニメが好きである。プロデューサー、監督、脚本他多くの人が関わる作品は、時に世界観や主張が微妙に異なることがあり、それを感じると視聴者は受け入れにくい時がある。しかしアニメの場合、原作、脚本、多くの場合原画制作まで一人のクリエーターが行い、たとえ子供だましと言われるようとも、その世界観や訴えたいものに一貫性があり私は好きである。そんなアニメだが、『葬送のフリーレン』というアニメをTVでも放送していたが、気に入ってネットTVで見ていた。人間の何十倍も長寿のエルフにとって、人の世界観を知るのは難しい。同時に人がエルフの世界観を知るのも難しい。物語は、フリーレンがかって勇者一行と魔王討伐のため旅した記憶を元に、新たな仲間と旅をしつつ人の価値観や世界観を理解していくと言った展開である。人の世界の中でのみ考え続けている限り、生命の本質を知ることは難しいと考えさせられた。
本題から外れてしまったが、医師、特に開業医に定年という制度はない。しかし認知機能が衰えた医師に臨床は不可能であり、手指の振戦が生じたり自由に動かせなかったりすれば手術どころか、一般の診療も不可能であり、引退を決意すべきであろ う。葬送のフリーレンの中でも、旅をして十分に戦えなくなった戦士や魔道士は、後輩の育成をしつつ現役を引退して余生を生きている姿が描かれている。現役を退いた後に、人生を振り返られる時間を与えられたと考えれば老後という言葉は、まんざらでもないのかもしれない。
自由業でもある医師に定年はない。しかし病んだ人たちに立ち向かって、自分の知識と医療に責任を持って行う医療行為にはそれなりの覚悟や意欲が必要である。どこかに『もう仕方ないか・・・』とか『これ以上はむだか』といったマイナスの発想を抱くようなら医師はその責務を負うべきではないと私は考える。少しでも良くする、少しでも長生きさせる、そんな思いの上に医学は発展してきたはずだからである。
幸い、65歳を過ぎた私は、まだまだ地域住民のために自分の医学知識を役立てたい、少しでも受診された患者様の健康を守りたいという意欲がある。しかし引退を考えるべき時は近づいているのだろうなと思ってしまう自分を意識して、ふとこんなタイトルについて綴ってしまった。
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