カテゴリー「勤務医時代の思い出」の記事

2015年10月21日 (水)

『みかん』が実る観葉植物

Anichosinki 昨夜、製薬メーカーの方々と飲みながら語り、研修医時代の思い出を語る機会があった。その時に、私の中でも少し忘れかけていた思い出があり、ここでもう一度語ってみたい。

現在の研修医制度とは異なり、当時は大学の教室に入局して研修を行うのが一般的だった。私は、三重大学第一内科に入局して、故竹澤教授の下、三重大学病院で研修をさせていただいた。研修医にとって、日々勉強であり、数多くの患者様を診て、多くの事例や処置などを経験しなくては一人前に育たない。ある意味貪欲に知識を求め、経験したあの頃は、若く活気にあふれた時代として、今となっては、とても眩しく、熱い記憶になっている。
そんな中で、研修医にとって、早く取得したい技術の一つがナートである。つまり針と糸を医療用の鉗子を巧みに使って傷口を縫合する技術である。内科医を目指す自分たちでも、外科的な処置は必要である。研修医が居たテーブルの上には、何度も糸をかけて結んだ紙や布きれなどが、必ずと言っていいほど置いてあった。201510214
ちょうどそんなときに、病棟のドクターステーションが殺風景だからという理由で、当時の病棟主任の命令で、テーブルに比較的大きな観葉植物が置かれた。しっかりとした幹から上方で緑の葉が周囲に伸びて広がっていた。秋頃までは、ただの観葉植物として部屋を飾っていたのだが、冬になり差し入れとしていただいた『みかん』がテーブルに置かれると、誰が始めたのか、観葉植物に『みかん』が縫い付けられ始めた。しかも研修医が競って、縫合部分が判らないように縫い付けるのである。多いときは、10数個の『みかん』が縫い付けられていた。糸も見えないように、如何に自然に縫い付けるか密かに競った記憶がある。
そんな『みかん』の実る観葉植物で忘れられないのは、教授回診が終わって、ドクターがステーションに集まったときのことである。故竹澤教授が、椅子に座るやいなや、観葉植物をみて『変わった木ですね!』とおっしゃられたのである。冗談で言われたのであろうが、縫い付けていた自分たちからすると、みかんが実っているように見えたのだと思い、少なからず喜んだのである。今思えば、研修医のそんないたずらを受け入れていただいた教授に感謝である。

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2014年12月11日 (木)

医学と医療の違い

Anichosinki 久しぶりに、勤務医時代の医療を思い出す出来事があった。

現在、在宅で看取りまで希望されているご年輩の女性を在宅医療で診させていただいている。その方に新たな問題が生じて、後方支援の病院の先生と話す機会があったのであるが、病院の先生は、気管に穴を開ける処置を迷わずに提案された。しかし私の中にその選択肢はなかった。

確かに、今後医学的に生じてくる種々の問題に対して、気管切開がしてあれば対処も楽で有り、栄養や状態管理面でも有用である。しかし、家人もそうであったが、私の中にその考えはなかった。医学的に私の頭に浮かばなかったわけではない。ただこの方に対して、そう考えなかったのである。詳細をここで書くわけにはいかないが、温和に在宅で生活して、自然に逝きたいと思われる方に、気管切開を予防的に行う選択肢は無かったのである。201412112
勤務医時代、お元気に自立されている高齢男性が大腸癌だった。内視鏡で見ると、ほぼ全周的に狭窄が有り、今後腸閉塞など起こす危険性があった。既に肝臓転移などもあり、生命的予後は長くないが、それ以上に腸閉塞を生じた場合、腹痛や嘔吐と共に、時に緊急手術も必要となるかもしれない。部分切除することで、そのリスクを回避出来るため、それを患者様やご家族にお勧めした。結局、話し合われて、何もしないと言う結論を選ばれたのである。
もし閉塞を起こしたら・・・など考えたが、結局その後ほぼ通院もされず、一年半の間、旅行などにも行かれて、ご自由に生きられて逝かれた。
亡くなった後にご家族様からお礼を言われたが、礼を言われる立場では無い。
医療の選択の難しさを感じると共に、医学と医療の違いを痛感した。
今回あの時と同じような判断をするにおいて、昔とは異なった見地から患者様やご家族様を考えていた自分に気づかされたのである。

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2012年6月24日 (日)

払い戻し

Coffee_cap 昨日、K-POPのコンサート企画会社が倒産し、予定していた兵庫県などのコンサートが中止になり、その払い戻しがされないと言うニュースを聞き、随分昔の話になるが、責任を感じてしまったある救急受診を思い出した。

救急病院で勤務していたある日、午後2時過ぎだった。救急車で運ばれた方が循環器系疾患の疑いで、外来当番が血液内科の先生であったために、私が呼ばれた。救急外来に行くと、細身の長身、彫りの深い顔立ち、ブラウンの長い髪に口の周りのひげ、シルクのシャツの胸元から見える赤っぽい色の胸毛、どことなく芸術家を想像させる様な白人男性がストレッチャーに寝ていた。Italia02

『どうされました?』と日本語で尋ねてもわからない。『How about... 』英語にも反応してくれない。ただ胸を押さえられていた。血圧は正常だが、脈を診ると頻脈。早速心電図を行なうと上室性の頻拍症だった。身振り手振りで、いくつか頻脈を止めるための手技を行なったが改善しない。とりあえず血管確保のために点滴を入れることを、これも身振り手振りで説明して、左腕から点滴を行なった。かなり緊張されていたようであるが、点滴が入ると安堵されたようである。その時ふとモニターを見ると、頻拍も改善して正常洞調律に。

その後、通訳の方が見えた。イタリアの方だったらしい。これまでの経緯を話し、上室性頻拍症を説明した。これまでにも、たまにこう言った経験はあったそうである。その後しばらく経過を見たが、安定しているために宿泊中のホテルに戻りたいとのことで、許可することにした。

彼は帰られるときに通訳を介していくつか質問してきた。・また再発するか? 可能性はあると答えた。 ・今日は大丈夫か? それはわからないと答えた。 ・内服すれば抑えられるのか? 検査を進めてみないと判断できないが、これまでも時々生じていたのなら、慌てて旅行中に内服する必要なないだろう。 その後しばらく彼は通訳の人と聞き取れないイタPhotoリア語?で会話していたが、一段落すると、初めて笑顔を見せて、私に手を差し出し、『ドーモ、アリガトー』と握手してから帰られた。

翌日のことだった。看護師が地元の新聞を持って私の所にやって来た。『先生!この人』見ると、昨日の白人男性の写真が大きく掲載されている。記事を読むと、イタリアのバイオリニストの昨日の講演は体調不良により中止され・・・と言う内容だった。知らなかったが、有名なバイオリニストで、演奏会のためにこちらに来ていたのである。

間違った医療や判断はしていないつもりであるが、私の説明が講演中止と言う判断をさせItalia01ていたのかと思うと、つくづく医師の判断の重要性を思い知らされたのである。

この時、楽しみにされていた方々に、適切にチケットの払い戻しがされていたことを願わずにはいられなかった。

(写真は、今はなくなったイタリア村:名古屋)

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2012年6月 2日 (土)

忘れられないきつい一言

Anichosinki 遠い昔の話である。私が救急病院で、家庭を犠牲にして救急医療に打ち込んでいた頃のことだ。

当時、自宅に帰って寝るのは週に2-3回、それ以外は医局横の宿直室の空いてる部屋で寝ていた。と言うよりほとんど起きていた。当時ICUと言う、重症の部屋に受け持ち患者さんがいつも4-6人。それ以外にも20人以上を受け持っていて、外来、検査などの病院の外来業務を終えてから、自分の患者さんを回診して、更に処置をしてと行っていると、24時間では足りなかった。結果、家庭を犠牲にして病院漬けになっていたのであるが、それでも救急にやりがいを感じ、俺がこの町の医療を支えていると言った自負まで持って医療を行っていた。

ある日、一人の患者様の容態が悪化し、数日泊まり込んで加療していたのであるが、その日深夜午前3時頃に息を引き取られた。死後の処置などをして、ご遺体を見送ったのが、午前5時前だった。その時点で、他の患者様も変わりないため、自宅に着替えに戻ることにした。当然家族は熟睡しており、起こさないようにそっとひとりお風呂の湯を貯めて浸かったのである。

しかしこれが間違い。湯船で熟睡してしまっていた。気がつくと夜も明けた午前7時過ぎ。家内が気づいて起こしてくれたのであるが、その時病院から連絡が入っていたことに気づいた。慌てて病院へ連絡すると、先ほど亡くなられた患者様の隣のベッドにみえた男性患者様が急変され、亡くなられたと伝えられた。

病院に戻ったのは午前8時前と通常の出勤時間。ICUに入っていくと、亡くなられた方のご子息様が、私の胸ぐらをつかんで厳しい口調でこう言われた。

『なんで、死んでいくときにあんたがいなかったんや!』Otya1

ずっと付き添われ私の行動を知っている奥様は、『何を言ってるの、先生はいつもそばにいて診ててくれたんやに。』となだめてくれるのだが、それも気づかないほど放心状態になってしまった。

私としては、全身全霊を尽くして治療してきたつもりだった。でも、亡くなられるその時に立ち会えなかっただけで、こう思われるんだと思うと、やりきれない、それでいて自責の念にとらわれていた。100%なんて無理だと思いつつも、それを目指してがむしゃらに医療を押し切り続けた若い医師時代の思い出である。


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2012年2月 8日 (水)

真夏の思いでpart2

Coffee_cap 前回、真冬にもかかわらず真夏の思い出話をさせていただいたが、調子に乗ってもう1つ、真夏の思い出話を語りたい。

医師となり5年目、先輩の医師からも、そして周囲の医療スタッフからも一人前と見なされ始めた頃の夏だった。何をもって一人前と判断するかは難しい。ただ何か医療上の問題が生じたときに、『先生がいるから大丈夫・・・』と言う安心を、周囲が持てることは条件の1つかもしれない。

お盆近くの休日午後のことだった。当直でもなかった私は、入院中の患者様の様子を見るために昼過ぎに病院に立ち寄ったのである。今更愚痴を言うつもりはないが、この時受け持ち患者は30人を超えており、しかも5人はICUと呼ばれる重症の患者様が入る部屋にいた。日曜日など休日は、事実上無かった。 幸いこの日は、みなさん落ち着いておられ、必要な処置や処方、指示などを出し、カルテをまとめて、自宅に帰ろうとしたのが午後3時頃であった。駐車場に向かうため救急外来の前を通ると、何かあわただしい。Nuigurumi

何か物品を取りに走り出てきた看護師さんが、私を見つけると『あー!〇〇先生、ちょうど良かった!診てください!』と私を救急室に引っ張った。この日当直医は外科医であり、内科疾患ではないのに?と思いつつ救急室へ入ると、外科の先生が早口で経過を説明してくれた。救急隊からは、ぬいぐるみに入って野外でのショーに出ていたアルバイトの男性が、舞台から転落したのでと言うことで運ばれてきたそうである。外傷はなかったのだが、胸の苦しさを訴えたのでレントゲンを撮ったら・・・と言ってレントゲン写真を指さした。

両側の肺が写真上真っ白になっており、いわゆる急性の呼吸障害である。炎天下でぬいぐるみに入ってのアルバイト。体温は38.9℃、動脈血液/ガスも低下している。脱水などから生じた成人呼吸促迫症候群である。その後主導権は完全に私に移行し、6人目のICUへの入院となった。意識もあり、自発呼吸もあるが、息苦しそうである。京都の学生さんで、この日初めてぬいぐるみに入るアルバイトをしたそうであった。

Sansomask成人呼吸促迫症候群は、けっして侮れない疾患であり、致死率も低くはない。幸い治療に反応してか、その後も彼の症状に大きな変化は見られず、酸素マスクをしながら点滴加療を続けた。夜9時前に、お父様が来院されたされた。両横と後頭部にしか髪が残っていない頭に手をやりながら、症状や疾患の説明をじっと聞かれていた。しかし話が終わると、突然にニコヤかに笑い、「そうでっか~、よろしゅうお頼みしますわ~」と開き直っているのか、落ち着いているのか、全く危機感がない感じだった。

その夜も結局自宅に戻ることは出来ず、深夜に回診に行くと、彼がこう尋ねてきた。『先生、俺重症なんでしょ?助かりますか?』同じような台詞を、高齢者の家族からは何度も尋ねられた。しかしこんな若い子から、この質問が出るとは思ってもいなかった。なんと答えたか覚えていないが、その時の彼の声はしっかりと記憶している。

あれから20年近く経つ。彼はその後回復し、このことがきっかけで医療に関心を持ち、医療機器メーカーに就職し、今も活躍されている。毎年写真入りの年賀状をくれるのだが、年々禿げ上がっていった頭髪は、お父様と同じである。

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2012年2月 6日 (月)

真冬に真夏の思い出話

Coffee_cap 立春が過ぎて、少し寒さが和らいだが、まだまだ真冬には変わりない。そんな今日、訪問してくれた製薬会社の方と真夏の思い出話をする機会を持った。なぜそんな話になったかというと、あるTVのニュースコメンテーターが、「今の若い人にバブルの頃の日本を見せてあげたい・・・」と言う話をしていたからだ。バブルの頃、そしてバブルがはじけた頃こそ、私が救急医療に最も関わっていたときであり、そこからこの話につながったのである。せっかくだから、その内容を少し書いておこう。

15年ほど前のことである。真夏の日曜日の救急外来をしていた。その年は、さほど猛暑ではなかったが、それでもその日は33度くらいあった。救急隊から、24歳の男性が路上で倒れているから搬送するとの連絡をもらい、間もなく運ばれてきた細身の男性は、薄汚れたTシャツにすり切れた綿パン姿であった。発熱もなく、血圧も正常で、身体的異常はなかったが、脱水気味であり、何よりも疲れているような感じであった。Awa

血液検査がてら点滴をしようとすると、お金がないからと彼は治療を拒否した。詳しく話を聞くと、バブルがはじけて長野にある両親の会社が倒産し、彼は伊勢に住む叔父を頼ることになって、家を出たそうなのであるが、ほとんど金銭を持たずに家を出てしまい、名古屋から歩いて伊勢に行こうと考え、途中力が入らなくなって倒れた・・・と言うのである。

しばらく休んだら、元気になるから、そうしたら出て行く・・・と彼は話した。とは言え、医師として何もせずに放り出すわけにもいかない。隣の処置室のベッドに寝させて、看護師さんと二人の秘密にして250mlの生理食塩水を点滴してあげた。そして2時間後、彼が出て行こうとしたので、自分が飲むつもりだったポカリスエットのペットボトルを彼に持たせてあげたのである。

笑えてくるような、話かもしれない。しかし、実際にあった話である。

バブル・・・久しぶりに耳にしたこの言葉から、こんな思い出が浮かんでくるとは。


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2009年12月25日 (金)

クリスマスに、晦日の話を。

Coffee_cap

今日は、クリスマスである。だからと言って何も変わらないのであるが、少し診療時間に余裕ができたので、久しぶりにブログを書いている。ついでに、せっかくクリスマスの更新だから、名古屋駅前のイルミネーションを掲載しておこう!

09_2  さて、先日髪をカットしてもらいに美容院に出かけたのであるが、その時、この時期には挨拶の言葉とも思える様な『年末年始のお休みは・・・?』と、カットしてくれるお姉さんから尋ねられた。どちらかと言えば、私は後でゆっくりしたいと考えることもあり、年末は大晦日まで診療を行い、年が明けてから休みたいと考え、職員の同意が得られる限りそうしている。加えて、市から依頼されている年末年始の休日診療と言うのがある。休日診療と言っても、午前9時から翌午前9時までの24時間である。なかなか12月31日の朝から1月1日までの診療を希望する医院が少ない中、私は年末年始に仕事をするならこのパターンを選んでいる。そして今年も大晦日まで通常診療をして、そのまま元日朝まで休日診療を引き受けた。

Meiekiirumi01 美容室のお姉さんにそう答えると、『えっ~、どうしてですか?』と返されてしまった。一般に年越しはのんびりしたいんじゃないかと言うのです。確かにそうかもしれないが、私には痛烈な思い出があるのだ。

医師になって一年目の研修医。年末年始は各病院から、当直の依頼が多く、そんな中私は、大晦日から元旦朝までの日当直を引き受けた。救急病院でもなく、入院患者の半数は外泊中とのことで、のんびりと大晦日の当直をしていたのだ。ところが、紅白歌合戦の審査が行われる頃、病棟から連絡があった。かなりの高齢患者さんの容態がおかしいとのこと。かけつけると、心肺停止状態。そのまま気管内挿管を行い、人工呼吸、そして心臓マッサージを開始した。家族に連絡がつかないとのことで、心臓マッサージを続けていたのだが、冬とは言え、心臓マッサージを一生懸命行うとかなりの運動になる。額から汗Ico_joyanokane3 が落ちるのを見た看護師が窓を開けてくれた。すると・・・

どこからか除夜の鐘が、『ゴ~ン』と聞こえてくる。

結局、年が明けた午前0時半頃に家族と連絡がつき、来院され、主治医に変わって死亡宣告をしたのだ。一年目の研修医と言うことで、全力を出し切った年越しであった。それ以来、年越しの時間に医療を行うことが、医師として当たり前のように思えるのである。

さて、今年の除夜の鐘は、どんな状態で聞けるのでしょうか?

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2009年7月31日 (金)

声が大きい

Coffee_cap 私は、声が大きい。一般内科で外来を行うとき、これはとても大切である。言わずもがな、ご高齢の難聴の方々に好評だからである。特に耳の遠い方を診察した後には、いつもより声が大きくなっているようで、次に診察室に入ってきた中学生くらいの子に『おはよう!』と爽やかに挨拶したつもりが、『声、でけ~』と返されたこともある。

勤務医時代にも声の大きさで思い出がある。その日、新患でみえたご高齢の女性は、明らかに耳が遠かったため、いつもより大きな声で診察を始め、訴えられていた胸の苦しさについて診察を進めていた。私は、ご高齢の患者様に対して、認知症(当時は痴呆と言っていたが・・・)のスクリーニングのため、その日の朝食の内容を尋ねることがよくあった。この時も、診察の途中で、朝食の内容を尋ねることにした。

『今朝は、何を食べてきたの?』

「は・あ~?」

どうも聞こえていないようで、声を大きくした。

『今日の朝は、何を食べたの?』

「・・・・・」

やはり聞こえていないようである。そこで最高の大声でもう一度質問した。

『キョウハ、ナニヲ タベテキマシタカ?』

すると、

「はい、ナスの入った味噌汁とごはんを・・・」

笑い・笑い・笑い・笑い・・・・・・

Nasubi なんと、壁を挟んだ隣の診察室の高齢の患者さんが答えてくれたのである。隣の診察室の先生も、看護師さんも、そして中待合にいる患者さんも、一斉に大爆笑

笑ってなかったのは、恥ずかしさをこらえた私と、そんな状況が聞こえていない私の高齢の患者様だけだった。

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2009年7月 9日 (木)

緑の稲田と有機リン

Anichosinki雨が続くこの時期に、緑が少しずつ深くなる稲田を見ると、毎年必ずある女性患者さんを思い出す。救急医療に追われていたある日、雨の中病院に向かうときに、同じように緑が濃くなり始めた稲田を見ていた。その日の午後『農薬で服毒自殺を図った女性を搬送します』と救急隊から連絡を受けた。農薬は有機リン剤だった。ちょうど松本サリン(有機リン)事件が起こる少し前のことである。

その昔子供を交通事故で失い、それから自分を責め続け、何度か自殺企図もあったそうである。そして今回の服毒自殺にいたった。搬送されてきた時は意識もあり、処置を始めた私を見て『ご迷惑かけてすいません』と話された。直ちに胃洗浄など服毒に対する処置を開始したが、その後意識がなくなり痙攣と共に、呼吸停止状態から心肺停止状態となった。心臓マッサージなど救命処置を続け、何とか一命を取り留め、その後人工呼吸管理下で加療を続けた。服毒物が有機リンと判明していたため、瞳孔の大きさを見ながら治療を続けたのが、昨日のことのように思い出される。最終的に自発呼吸は戻られ、意識も多少は改善したのだが、認知機能はほぼ消失して寝たきり状態となってしまった。その後数年の間、私がその病院から勤務交代になるまで主治医として診続けたが、状態は変わることはなかった。

先日TVで松本サリン事件の、被害者家族の特集を放映していた。加害者として疑われた経緯などみなさまもご存知のように、そのご苦労は察するに余りある。だが私は、違った意味でこのTVを見ることが出来なかった。

0762tanada 自殺を図って、死を選択して私の前に運ばれてきた女性。私は、その女性を寝たきりの状態にしてしまったのである。勿論助けようとしての結果であることはわかっている。しかし、一人の女性として家事を行ったり趣味もできないどころか、家族との会話も不可能な状態にしてしまったのである。食事も経管栄養。体を自分の意志で動かすことも出来ない状態である。命は助けたのかもしれないが、本当にそれが良かったのかと、その後考えない日はない。医師として救命を目的に処置を行った行為に偽りはなく、悔いもない。しかし結果として死を望んだ人を寝たきりという状態で生きながらえさせたのである。ご主人は、私に感謝の意を示すことはあっても責められたことは一度もなかった。ご主人を始め家族の方のその後の苦労は計り知れないはずである。むしろ一言でも、ご主人から『助からなかった方が・・・』などと言う言葉が聞かれた方が楽だったのかも知れない。

私がその病院を離れてから数年後、その女性が亡くなられたことを聞いた。卑劣かもしれないが、私は少し肩の荷が下りたような気がした。しかし今度は、そう感じた自分を責め続けている。

緑深くなり始めた稲田を雨の中で見ると、あの日の、そしてそれ以来考え続けるこの思いが私の頭の中で広がってしまう。

(写真は季節も場所も異なるが、地元の棚田)

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