灯台と神社
灯台を巡っていて気づいたことがある。有名な整備された灯台では、その存在感のためなのかあまり気がつかないが、小さな埼や岬の先端、或いは入り江に立つ灯台の近くに神社やほこらが多いことである。
最近このブログでもまとめた三重県の九木港沓埼灯台は入り口に九木神社、灯台の真裏にも岬神社があった。石川県の白尾灯台は、 能登自動車道のすぐ脇に立っているが、やはり神社が横にあり境内に立っていると言っても良い。06年夏に訪ねた徳島県の阿比瀬ノ鼻灯台も神社の境内から灯台への道が続いていた。他にも挙げればいくつも思い出すことができる。また神社と言うほどでなくても近くにほこらが存在することも多い。三重県の麦埼灯台では、撮影のためにほこらに、もたれかかるようにしてカメラを構えた記憶もある。
神学や宗教論、哲学を説くつもりもなく、もちろん持ち合わせていないが、埼の先端や岬の山中にたたずむその白い建物の周囲に行くと、どことなく清らかな凛とした空気が漂っ ている。そしてその近くに、しめ縄が渡されたほこらに気づいたりするのである。阿波の刈又埼灯台の背後にあるほこらが海を、そしてその海へ出る人のために祈るものであろうことは容易に推測できる。航行の安全のために光を放つ灯台に近い位置に、ほこらや神社が建てられていることは、地理的観点からでも当然のことなのかもしれない。
しかし私は、八百万の神として、多くの神が存在すると言う日本人にしか受け入れがたい観念からも、灯台そのものに神を重ねて見ているのだと思う。波間を進む船上からこの光に感謝する心が存在する限り、灯台はお守りであり神なのかもしれない。そしてその考えが、私を灯台に人の香りを感じさせている理由の一つなのかもしれない。
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